お安い御用です。以下は全て、「杉田久女」と検索した結果のコピペです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 久女は句集の出版を切望しており、虚子に序文を頼むために再三にわたって手紙を送り、上京もしたが黙殺された。1936年(昭和11年)には理由不明のまま、日野草城、吉岡禅寺洞とともに「ホトトギス」同人を除名される。以後は句作に没頭できず鬱々とした日々を過ごし心身を衰弱させた。1939年、全句を書き出して自選を行い俳人としての人生を総括。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 高浜虚子は『ホトトギス』1946年11月号において久女を「遂には常軌を逸するやうになり、所謂手がつけられぬ人になつて来た」と断定し、これは虚子による小説『国子の手紙』(1948年)の原型となった。さらに1952年10月に角川書店から刊行された『杉田久女句集』の序文で、虚子は「其の時分の久女さんの行動にやや不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかつた。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めた」と記した。
俳壇の大御所であった虚子によるこれらの表現は、その後の「久女伝説」に決定的な影響を及ぼし、池上浩山人など俳壇関係者の間でも事実として受け入れられた。『国子の手紙』を参照した山本健吉は、1951年6月刊行の新書『現代俳句』上巻において、久女について「人と同ぜず、敵多く、功名心強く、性行常軌を逸し」「友人・親族・肉親にすら愛想をつかされ、孤独不遇のうちに死んだ。極度の神経衰弱であった」と述べ、客観的な証拠もないままに、高浜虚子の記述が事実として理解された。
高浜虚子がこのように久女を描いた理由について増田連は、『ホトトギス』から久女を除名したやましさに正当性を与えることにあった(久女が常軌を逸して手がつけられないから『ホトトギス』から除名したと言い繕うことが目的)と推測している。
高浜虚子の記述はその後の久女に取材したフィクション作品にも影響を及ぼし、松本清張の小説『菊枕』(1953年『文藝春秋』)、吉屋信子の小説『底のぬけた柄杓-私のみなかった人「杉田久女」』(1963年『小説新潮』、『底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち』新潮社、1964年)で題材とされた。テレビドラマでは『山ほととぎすほしいまま』(1964年、RKB毎日放送「近鉄金曜劇場」、秋元松代作、渡辺美佐子主演)、『台所の聖女』(1988年、NHK、田辺聖子原作、樹木希林主演)などが制作された。
高浜虚子の没後、増田連などにより進められた実証的研究では、『国子の手紙』をはじめ高浜虚子による久女関連の情報の真偽は疑問視されており、田辺聖子は評伝小説『花ごろもぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女』(1987年)を発表し久女像の転換に大きく寄与した。現在では久女の実像を踏まえ、近代女性俳人の嚆矢としてその作品が評価されるようになっている。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 それにしても、久女ほどの俳人が生前自身の句集を持ち得なかったとは、今昔の感に堪えません。三寸などは俳句を始めて3年くらいで、句集の出版を勧められたそうです。勧めたのは本屋で、費用はもちろん自分持ち。この種の句集専門の本屋を、三寸は ”賤業”と呼び、55年間俳句を続けながら、1冊の句集も出さないことを、むしろ誇りにしています。 大昔、佐藤紅緑(サトーハチロー・佐藤愛子の父親)という大人気作家は、子規門下の俳人でもありましたが、「是非先生の小説を当社から」と寄って来る本屋に対して、「よろしい。その代り、私の句集も出せ」と持ち掛けたそうです。小説による儲けが多いので、その一部を吐き出すつもりで、本屋は応じたようです。句集は売れないのが、昔も今も当たり前で、刷ったものを全部本人が引き取って、縁者に配ることにより、”卑業”が成り立つのでしょう。
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