商売の廃業と私の人生
(K.Nさん;北の鈴12号より)


 今年一月末以来、声ガレが余りひどく続き、旭川赤十字病院に入院検査の結果、喉頭ガンにより声帯手術は、急を要し、もう少し遅くは、窒息死さえありえるとの、宣告を受け、家内は基より、子供兄弟達の顔色から、自分は自慢の、ヘビースモカーで、当然咽喉の方はだいぶん悪いと、感じていた。

 新年に入り、商売の多忙さと、会合の予定などで、私の手帳はぎっしり、私は心の準備もあり、担当の医師に素直に腹を打ちわけ、お伺いした所、ご家族の方に申し上げましたが、手術は急を要しますと、早速手術を受け、意識が戻り、頭の痛みを知らせ様とした時、すでに私の声は失なわれ、「Nさん、何か言いたい事は、このボー ドに書いて下さいね」と看護婦さんから言はれ、只今より私の会話は筆談が、子供の頃から字を書く事は大嫌いの私に取って、全くの苦痛の始まりでした。

 小さな店でしたが、実に幅広くご交際を頂き、大勢の皆様やお客様より、身に余る激励のお言葉や数々のお見舞いを賜り、私自信どんなにか勇気ずけられました、家内は朝な夕なを間わず病院通い、子供や兄弟達にも随分心労を掛け、お陰様で手術の結果は順調で、尚二十回の放射線も無事に終り、五月二十目、、百目振りで退院できました。

 何をやっても三日坊主で、穴のあいた様な毎回の生活でした、私自身が納得しての手術でしたが、親から貰った肉声を失い、すでに手術以来百八十日余り、沈黙の自分を実に悲しく思います。
時折り夢に見る仲間との会話や、冗談話しの最中ふと目がさめた時の口惜しさは、何とも言えず、これが誠であってほしかったと、しみじみ考えさせられる、今日この頃の嘆きでございます。

 退院以来店に「はった」休業案内が誠に、いじらしく、又情けなく思い、一目も早く店を開きたい、然し今の私は声も出ず、そんな自分の体と心が、家内達と交す筆談問答は、どれ程くり返えされたものか、特に仕事と商売に無心家内で理解はしつつ、お客様に申し訳けないの、一念に燃えた情熱は、下向きに押える涙の苦しみは、一応のものではなかったと思います。

 入院中看護婦さんに進められ、病院にある発声教室を見学に行き、指導者の方指導を受ける人達の真剣さに、今後の自分を頭に写し出し、胸がしめっけられる想いで、一時間余りで病室に戻った時には汗で体がぺっとりでした。
 退院後間もなく三泊四日で、宿泊発声訓練と言う支笏湖青少年研修センターに家内の付添を共に参加させて頂き、それは皆さん誠に明るく、私の目には、同病心ひとつに、の感じに思い幸せでした。

 初めての試みでしたが、ご親切なご指導を頂き、心から感謝致しました。
私の商売は鮮魚と鮨屋でホテル街に近く観光の方を初め地方より千差万別のお客が多く、味や技術は勿論大切ですが、話題の提供も豊富に、その心を売る事が最も必要たのに、経営者の私が声も出せずでは、全くお話しにならず、そこで私は色々悩みましたが、人生には自分の力では、どうしても図り知れない、大きな宿命があると、自分の腹を固め、昭和10年7月19日猪生れ、六十才の「年男」これは、あえて第三の人生の始まりとして、一時の流れと共に「運は天にまかせよ」の気持で出発致します。

 私自信の将来は今この瞬間こ上にあると、誓いを新たにした次第です。
顧みて、鮮魚の店は二十才より独立、四十年間鮨の店は三十才より三十年間、お人好しでお金儲にはご縁が薄く、中学卒業16才より魚屋の店員、無学非才の自営を始め、会や各組織に積極的に誘われ、多くの仲間に恵まれ、各先輩のご指導も頂いて参りました。

 返す返すも、この病気の為に、自営業としては年令的に、十年は早い引退となり非 常に残念ですが、沢山の想い出が責めても、私の胸に心に残る財産であると感謝の気持で諦めざるを得ないのです。

 前記の預りこれも私の人生に与えられた宿命として、誠に慚愧に堪えませんが、休業に続き六月いっぱいで廃業致しました。
私なりにこの機会を第三の人生の節目と受けとめ、無器用者ですが、先ず第一に発声訓練と言う試練を乗り越えてたとえ片言でも孫達と話しをしてみたい、更に皆様と会話の出来る様に、努力を重ねる覚悟でございます。

 幸い生れながらに自然の声で覚えた話し、学んだ言葉により自由の会話で楽しい生活が、そして友信を結び、社会に少しでも貢献しなけれぱの想像とは裏腹に、私が突如として、声を失った悲しさと、その不有由さは経験した者でなけれぱ「到底」書いて表現の出来るものではありません。

 今更だがら声の大切さを改めて知らされました。声だくぱ職業によっては、私の様に失業者となり、それは、天国から地獄を見た様な思小が致します。
これからは決意も固く、食道発声に向かい素直に勉強させて頂きたいと焦る気持でいっぱいです。現代病としては色々ありますが、声あってこそ心が開かれ明るい社会が見えて参ります。

「60の手習い声に泣くばかり」