★「妻子がガンになったとき夫は・・」
(東京都;N.Iさん)


週刊現代から取材を受け 2001/1/27号に掲載されました
手術が8回も繰り返された.

印刷会社に勤務するN.Kさん(東京都足立区在住・49歳)の妻・Iさん(48歳)が喉頭ガンになったのは、8年前。1人娘は当時、中学2年生だった。


Iさんも電子部品の組み立て工場で働く共稼ぎ家庭にもかかわらず、家事はいっさい妻まかせ。
Kさんは毎晩同僚たちと飲み歩き、深夜帰宅も多かった。仕事には真面目だったが、家庭をかえりみるタイプではなかった。


ある日、Iさんの咳が止まらなくなる。Kさんは、風邪だろうと気にもかけていなかった。ところが、近所の医院から紹介された大学病院で、Iさんの喉頭にガンが見つかったのだ。


「いつも明るい女房が深刻な顔つきで家にいたんです。で、ガンを告知されたと聞いて、そりゃあびっくりしましたよ。
突然のことで、どうしたらいいのかわからない。運が悪ければ死んでしまうのか?そんなことばかりがぐるぐると頭を駆け巡ってました」


Iさんは、通常ならば入院するところを通院で押し通し、33回もの放射線治療を受ける。午前中に病院へ通い、仕事も続けた。幸い治療は功を奏し、1年半ほどでいったんは健康を取り戻した。


一安心したKさんが控えていた飲み歩きを再開したころ、妻のガンが再発した。今度は、声を失うことになる喉頭全摘出手術しか選択肢はなかった。「声を失うくらいなら死んだ方がまし」と、Iさんは激しく抵抗した。


「手術を拒否したら死んじゃうぞ、と思わず叫びました。いまは食道発声という方法もある。同じ声ではないけれど、喋れるようになる。だったら切ったほうがいいじゃないか、と必死に説得しました」
最後は子供を残して死ぬわけにはいかないという思いから、Iさんは手術を決心する。
命と引き換えに喉頭を取ったが、放射線治療で皮膚や粘膜が荒れ、なかなか傷口が塞がらない。足や肩の肉を移植する手術が、8回も繰り返された。
その間に腸捻転も併発、入院生活は思いのほか長引き、7ヶ月にも及んだ。


 Iさんは入院の直前、ハンバーグやシュウマイを冷凍庫に入るかぎり作り置いてくれた。それらを数週間で食べ尽くし、食料のストックがついに底をついた。自らが家事をすることになり、Kさんの生活は一転した。


 朝6時に起床し、まず洗濯。お茶を入れ、風呂を洗う。午後5時に仕事が終ると同時に会社を飛び出し、病院に直行。
しかし、娘の学校から送られてくる書類をどうしたらいいのかわからない。通帳のハンコさえ、どこにあるのかわからない有り様だった。
「そういうときは、書類一式をもって病院に行きました。工場でも家でも働くなんて大変なことだったのに、妻はいつも明るいからちっともそう見えなかったんですね。ストレスを溜めさせちゃったのかなぁ。


ガンもストレスが引き金になるっていうでしょう」 一時は声を失い、落胆していたIさんも、現在はすっかり明るさを取り戻した。
「銀鈴会」(東京を中心に食道発声を訓練する会を実施。会員1600人)に通い、日常生活に差し障りなく会話ができるまでになっている。


Iさんは、幸せそうな表情でいう。
「この人、本当に変わりましたよ。昔は電話に出るのも面倒がっていたのに、私に代わって出てくれるようになった。午前さまもせいぜい月1回になりましたからね(笑)」



名前以外は原文のまま



Iさんの言葉から
☆健康って最高の宝物!失ってみて初めて気づくのかも知れない お互いに好きなように生きていたけど、

ガンになって相手のことを考え家族の絆が強まった気がする。

あまり頑張リ過ぎず、肩の力を抜いて生きて行こうと思う。


Iさんからご挨拶(660KB)を頂きました。