■声を失って、そしてその後

喉頭癌によって声を失っていくそのときの気持ちと
その状況です。


>

第1章 発病まで

第1節 趣向品

1 煙草

(1)20歳代

当時(1960年代)は社会的にたばこの害は 知らされていなかった。私は、皆が喫煙しているからという 軽い気持ちで煙草を吸い始めた。 若いため、日に20本から30本(フイルター無し)を吸い、しか も強い煙草であった。

(2)30歳台

健康に気を使い始め、軽いフェルターのついた煙草にし、 1日に10〜15本程度となる

(3)40歳台

煙草の害を知るようになり禁煙を41歳で実行した。

2 酒

22歳〜27歳ぐらいまではよくつきあいで飲んだが、 お酒はあまり体質に合わずそれ以降はほとんど飲まない。

第2節 兆候として

1.3ヶ年前

友達と話をしているとき、声の響きがトンネルの中で 話をしているような反響を持った声になる。2〜3ケ月に一度の割合で起こる。 1分ぐらいそんな状態が続くとまた元に戻ってしまう。

2.1ヶ年前

週に平均1回、湿り気のある喉の中で1点だけの乾きを体験する。 そのため4〜5回ぐらい咳をしたり、また唾を飲み込むなどして その乾きを癒した。その間隔が日がたつにつれて次第に短くなった。

3.1ヶ月前

風邪もひいていないの微熱が出る。 もちろん勤め先を休んだりするような熱ではなく、普通に生活をしていた。 のどの渇きのため枕元にコップをおいて寝た。 その間隔はさらに短くなりマグロの刺身の上に油を垂らしたような感じであり、 痛みはない。声がかすれてきた。嗄れ声となる。高音が出ない

第2章 闘病その1(初めての経験)

第1節 入院前

1.町医者

近くの耳鼻科の病院で診察を受ける。
風邪かもしれないので、1週間分の薬をもらい治らなかったら また来きてくださいといわれた。それから1ケ月間はそのままのしていたが、 微熱が頻繁に繰り返す。その頃、体調の変化に気づき始めた。

2.総合病院

総合病院で喉を見てもらって化膿止めのくすりをもらう。 かなり強い薬らしくおなかに湿疹がでた。 1週間してまたきてくださいといわれた。

第2節 1回目の手術

化膿止めの薬でも治らないようだから検査入院しましょう。 期間は2週間。手術は短時間で終わる。全身麻酔で手術。 喉の細胞を摂取して病理検査待ちとなった

第3節 告知

妻と2人で耳鼻科の診察室の隣の部屋に呼ばれた。 そこには担当医と2人の若い医師がいた。 悪性ですがかなり初期の段階です。と伝えられた。 1段階から4段階に分けられて私の場合は1段階目でしかも声帯の片側に腫瘍が ありきわめて軽い。その後、妻と2人で病室に入り喉頭癌と告知されたことにつ いていろいろと話合ったが動揺する気持ちはなかった。 医学書を読んでみると初期の段階は放射線治療で直る確率は97%であると 書いてあった。一安心する。 まさか残り3%に自分が入るとは思っていなかった。

第4節 放射線治療

1.治療期間

50日間にわたり33回の治療を実施。この数は私にとっての 放射線照射量限界である。 リニアックアクセラレータ(直線加速器)と呼ぶそうである。 ジージーと熱光線が喉を焼き切っているみたいで気持ち悪かった。

2.副作用

喉が10回目頃から痛くなり出した。食事は全然おいしくない。 喉が窮屈になってきている。食欲はない。 舌はザラザラしていて食事はおいしくない。首の周りの皮膚は一皮むけた。 白血球の状態を見ながら放射線の回数を決めている。 体はだるい。気力が「す〜」と失せていく。 この状態を話した肝機能の低下が原因であると医師にいわれた。

第5節 化学的治療

1.抗ガン剤

食塩水と点滴を2週間ぶっ通し受ける。 寝るときもトイレに行くときも点滴の棒と一緒である。 その間に抗ガン剤の点滴を受けた。 瓶の周りが黒い紙で覆われており、劇薬という印象を得る。 その薬は点滴として特殊な機械で一定時間内に体に入れる。 3回にわけて実施した。 翌日の2回目は終了と同時に吐き気を催し起きあがる気力なし。 3回目はどうでもなれという心境である。

2.副作用

(1)吐き気

抗ガン剤の点滴が終わったときからゲエゲェと戻しはじめ、 夜中も洗面器を抱いて寝ていた。こんなに苦しいとは思っていなかった。 乗り物酔いの感じである。正常な細胞と一緒に消滅させるのだから当然だ。 この苦しみは人によって違うみたいである。 放射線治療を行う部屋までいったがゲェゲェと戻しが激しく治療をやめた。 1週間は気持ち悪くて食事も喉を通らなかった。

(2)吹き出物

胸のところに吹き出物が出始めた。痒くてかゆみ止めの強い薬を もらったが効かない

(3)免疫力低下

医師から免疫力が低下しています。 と告げられたがどうしてよいかわからない。 医師の説明によると3ケ月で元に戻るそうだ。

第6節 2回目の検査手術

放射線治療などによってガン細胞が消滅したかどうかを確認するための 全身麻酔による手術。結果は△であり、3週間後に再手術。 一体どうなってるんだ。放射線できちんとガン細胞を退治したの ではなかったかと思った。教えてもらいたい。

第7節 3回目の検査手術

手術の途中で細胞の配列に一部乱れがあるので レーザ光線で焼き切ったそうです。2年間の観察つきの条件で退院。

第8節 入院中の検査

採血10回、CTスキャン、レントゲン写真2回、 心電図2回、血凝固検査、 点滴(抗ガン剤×2、痛み止め×9、生理食塩水×56瓶)、 Gaシンチ注射(RI)計

第3章 闘病その2(再発)

第1節 再発

1.動揺

1年2ヶ月が過ぎた頃、先生から検査入院しましょうか? といわれたが別になんでもないからいいですと断った。 それから2ヶ月が経過して声の出が悪くなった。 以前の放射線治療の効果がなく、再発したと思った。 そう思うやいなや病院に行ってすぐ手術をやってくださいとお願いした。 声が失うことがどんなにたいへんであるかは そのときは考えていなかった

2.精神的苦痛

入院して手術するまで7日間あった。 体調を整える期間である。 でもこの7日間が耐えられなかった。 ガン細胞が今こうしている間に増殖し体をむしばんでいるかと思うといても立って もいられない。早く手術して取り除いて欲しいと思った。 気が狂いそうになった。

第2節 手術

1.喉頭全摘出

喉頭をまず気管と切り離す。上は舌骨の付近から切開し、喉頭蓋もふくめ全喉頭を 切除。下喉頭と食道の一部を縫って閉じる。気管は前頚部の下方に気管の切開口と して固定。呼吸はこの切開口を通して行われ喉頭鼻腔を通ることはない。下喉頭、 食道は縫合されたものでも正常に働く。呼吸はできるが声は失われる。 手術後、摘出した肉片・軟骨は両手でないと載せることができない量である。

2.術後の苦しさ

(1)地獄のもだえ

手術直後の私の身体は
ア.左鼻の中は栄養を確保するための胃まで続くチューブ管がはいっている。
従って水が口から飲めるのは2週間後
イ.首の下の気管孔には呼吸を確保するためのチューブ管が酸素ボンベに 通じている。
ウ.左手には、点滴用としてのチューブ管
エ.右手には、常に血圧を計るため器具で固定されている。
オ.首の下の胸あたりに傷口の状態を見るため2本のチューブ間が ベットの下までたれている。
カ.膀胱までチューブ管が入っていて、自然と尿が出るようになっている。
これがたまらなくいやだった
キ.首は3日間、固定された。従って横向くことのできないし体はそのままの 姿勢で3日間過ごす。たとえ痒くともどうすることもできない。 動けるのは手と目ぐらい。

(2)なにを考えたか

最初に感じたのは、管を全部引きちぎってやりたい。 でもそのような元気もなかった。 一番つらかったのは、膀胱まで通っている管である。 これが私にとって気持ち悪いと同時に変な苦痛であった。 我慢できずに1日でとってもらった。次に背中のだるさからくる痒み。 3日間はカーテンも開けずに過ごした。 なぜか太陽の光が欲しくない。 元気になるにつれて光が恋しくなってきた。

第3節 抗ガン剤投与

薬に名前は「ミスプラチン」。もうやめてくれ〜という気持ち であるが、これをやらないと手術後に飛び散ったガン細胞が撲滅できないとい われ渋々承諾する。
3日間に渡って点滴で体に入れる。 薬に入っている瓶は周りが真っ黒でなんだか異様。 もうやる前から体調が悪くなった。
第1日目はなんとかすんだ。
第2日目が済んでから昼ご飯は喉に通らない。 船酔いのように気分が悪い。 いよいよ始まったなぁと思う。翌日は朝からゲェゲェと吐く。
第3日目、これでもかとさらに抗ガン剤投与。もう限界だ。 でもやるしかないとわかると死んだ気持ちになって、体の中に強引に泥水を 入れられているみたいである。何とか終了した。 起きあがることもできない。ちょっとでも動くと吐くからである。 トイレに行くときも洗面器を持って行く。常に洗面器は体から話せない。 前のときよりも具合が悪い。
1日経過しても全然状況はかわらない。 3日後頃からなんとか話せるようになってきた。 また、食事もほんの少しだけどとれる。 退院してからの副作用に悩まされるのはわかっている。

第4節 入院生活

1.鼻からの流動食

術後、鼻に胃まで管を入れそこから食事をとるというわけ。 10日間はいっさい口から食べたり飲んだりはできない。 これはまたつらいもので。 水が欲しくなったらジュースなどを 鼻の管を通してのんだ。さっぱい味はない。 このときに思ったのが、わかめとジャガイモの入ったみそ汁が恋しくなった。 水は飲めるのだったら一杯1万円を支払ってもいいと思った。

2.発声の練習

(1)原音

病院内で稽古をした。 ある書物によると術後1週間たってから稽古をした患者がいたとあった。 気が焦ったいた。『呑み込み法』で本を読みながらやってみた。 もちろん医者の許可は得ていない。 医師に聞いてもそんなにあわてなくともという答えが返ってくるのは わかっている。 自分の体の具合は自分が一番よく知っている。 10〜20回くらい練習したら「ゲェ」と音がでた。 側にいた妻と手を取り合って心底から喜んだ。 2人だけの幸せであった。

(2)死にものぐるいの稽古

寝ても覚めても発声の稽古である。 呑み込み法はなんとかできるがその方法だと雑音ができて話ができない。 すぐ、吸引法の稽古に変えた。 音が出ないのにあきらめるなんどもなんども練習をした。 その方法でよいのかもわからず、 またいつ音が出るのかもわからずに寸分を惜しんで稽古をした。 退院する頃にはなんとか吸引法で「あ」といえるようになっていた。 でもその音を出すには50回〜100回ぐらい試みて1回の成功である。 退院するときに主治医に呑み込み法でお礼を言おうとしたが声が出ない。 緊張するとだめである。ざんねんであった。

3.いろいろな検査

RI2回、MRI、採血9回、点滴、CT、食道通し、 レントゲン3回、総計121.6万円

第4章 リハビリ

第1節 体のしくみ

首の根元に穴をあけ、そこと気管を連結した。ものを食べる道と呼吸する 道が別々となる。 その結果、口の中に空気が通らない。 従って嗅覚は無し、そして鼻もかめない。 呼吸は気管孔を通して行われる。 そのため食事のときとか物を食べたときに空気が胃袋まで入ってしまう。 いつも胃袋がぱんぱんの状態。

第2節 発声教室

退院後は家で1カ月ぐらい体を鍛えるため朝早く、 1時間以上時間をかけて散歩。途中で「カラス」が私の発声の先生となる。 2学期が始まるやいなやすぐ銀鈴会に行く。 そこでの練習風景はみんな汗を流しながらただ一声「あ」と音を出す練習。 必死だ。

第3節 3年すぎて

1日も欠かさず練習をしている。 でもまだ満足に話せない。 上達の度合いが自分では分からない。
体の調子が悪いとすぐガン再発というふうに結びつけてしまう。 体の湿疹がまだ抜け切れていない。

第4節 5年すぎて

5年すぎてガンの再発はなくなったが、毎年定期健康診断を受けている。いつも胃か大腸のどちらかが再検査になる。でも気にしない。 最近は胃に空気がたまって苦しいときがある。空気の呑み過ぎが原因で在ることはわかっているが その対策は見つからない。そのうち身体が順応してくれるまで気長につきあっていこうと思う。
抗ガン剤の後遺症からなんとが脱却したみたいである。(何となくそんな感じ身体の調子である)。
発声教室はいまでも通っている。勤めはまだ現役。